ウクライナでは、ロシア語は「敵の言語」になった(その2)

ウクライナでは、ロシア語は「敵の言語」になった(その1)からの続きです。その1はこちらへどうぞ

ウクライナ独立後、著名なロシア語作家の中には、名声と富を求めて移住した者もいた。例えば、ウクライナで最も有名なファンタジー作家であるマリナや故セルギー・ディアチェンコは、最初の「文学的移民」の一人であった。彼らはモスクワが好きになれず、また、おそらくはもっと大きな成功を期待していたのか、すぐにニューヨークへ旅立つことになった。しかし、ウクライナに残った多くの人々にとって、モスクワはごく最近まで一種の文化的な拠り所であり続けていた。2014年にクリミアが併合され、ドンバス戦争が始まった後も、一部のウクライナ人作家はモスクワで本を出版し、本のイベントに参加し続けた。今年の初め、ロシアの侵略が新たな局面を迎える直前、ウクライナで最も有名なロシア語詩人の一人、オレクサンドル・カバノフは、モスクワで2冊の本を出版し、ロシアの読者のためにオンラインでの本のプレゼンテーションに参加していた。

オレクサンドル・カバノフさん

今では、そのようなことが、そんなに簡単にできるとは考えにくい。ウクライナの愛国者たちは、ネット上や普通の会話の中で、ロシア語を「敵の言語」と呼ぶことが増えている。こういうレトリックを支持する人々は、ウクライナ人の多ければ40パーセントがロシア語を母語としているという事実を無視したいと思うだろう。しかし、ロシア語を話したくない人もいるが、それ以上に、ロシア語について話したくない人もいる。これらの人は口をつぐむようになった。ただし、クレムリンのプロパガンダとは裏腹に、これは別にウクライナのロシア語話者がこれまで、母語を話す権利について大声で抗議していたという意味ではない。モスクワは、ロシア語の抑圧とかいうものを、ドンバス戦争の正当化の一部として利用してきたが、それはナンセンスである。この地域では、ウクライナ語を話すクレミンナの町が、ロシア語を話すルビージュネと何十年も平和に共存していたのだ。

ただし、ロシア語はとうの昔にウクライナの文化の言語ではなくなっている。ロシア語は限られた語彙の日常会話の言語となり、今もそのままである。2014年まではウクライナの東部や南東部では、まだロシアの大衆文化が広くみられたが、それ以降はロシアのテレビチャンネルもなくなり、地元の住民も、ウクライナの他のロシア語話者と同様に、ロシア文化への関心をますます失っていった。彼らは、ロシア人作家の現代作品ですら理解できないかもしれない。ロシアの現実はウクライナの現実から、ロシアの世界はウクライナの世界から、あまりにも遠くかけ離れてしまったのである。

そして、ロシアの今回の侵略の最初の犠牲者は、彼ら、ウクライナのロシア語話者の住民だった。マリウポリ、メリトポリ、オヒティルカなど、ウクライナの東部と南部の、破壊されたり、占領されたりした都市は、ほとんどすべてロシア語圏であった。これらの南東部からの難民は、ウクライナ西部に到着したとき、生まれて初めて、この戦争におけるロシア語の役割について考えざるを得なかったのではないだろうか。ドンバス地方などからの難民が、もっと早くにウクライナ語を学んでいなかったことを恥じているのをよく耳にする。彼らは今、大挙してウクライナ語を学んでいる。

今年の2月下旬までは、キーウではウクライナ語を知らなくても快適に生活することができた。キーウの若い世代は、ロシア語、ウクライナ語、英語を容易に切り替えている。しかし、ウクライナ語は、100年前にロシア語によって締め出された、サービス部門に戻ってきている。若いミュージシャンの間では、ウクライナ語が流行している。ウクライナ語のロックとラップがウクライナの若者の文化を支配している。

クルコフさん

ウクライナがプーチンの侵略に対して立ち向かうたびに、ロシア語を失うという考え、つまり文化的景観からロシア語が消えるという考えは、より多くのウクライナのロシア語話者に受け入れられるようになった。2006年のオレンジ革命の後、2014年の尊厳革命(マイダン革命)の後、そしてその後、ロシアがクリミアを併合し、東部の分離主義者の蜂起を画策する中で、幾度もこのシフトが見られた。侵攻以来における、ロシアによる何万人ものウクライナ人の殺害は、ウクライナにロシア語やロシア文化が存在することに反対する強い論拠となっている。ロシア語の作家や読者が激減するのは必至だ。

私は数年前からウクライナ語でノンフィクションを書くようになったが、フィクションはロシア語で書き続けている。私の本はロシア語とウクライナ語の翻訳で出版されているが、私の本はウクライナ語の方がよく売れることが分かっている。ウクライナでは、ロシア語話者よりもウクライナ語話者の方がはるかに多くの本を読んでいる。これは誰も無視することのできない新たな現実である。そして、国が図書館のために購入するのは、ウクライナ語の本だけである。

これらすべてのことから、ウクライナでロシア語の本を出版するということの合理性に疑問符がつく。出版は続けられるだろうが、ロシア語での出版部数は少なくなるだろう。そして私は最近、少なくとも戦争が終わるまでは、ロシア語で本を出すのは完全にやめようと思っている。この後、ロシアがウクライナの邪魔を止め、ウクライナが自ら選んだ欧州の道を歩めるようになれば、私たちは言語の問題についてもう一度考え、最終的な決断を下すことができるだろう。私もロシアではもう長い間、多くの読者はおらず、本もロシアでは15年近く出版されていない。私にとっては、もう長い間、ウクライナ語話者の読者の方が、ロシア語話者の読者よりも大切であった。

しかし、ロシア語は私の「内的」な言語、つまり私の夢と思考の言語、機能言語となるかもしれない。内的な言語には、公式の地位の必要はない。そして、もちろんのことであるが、母語は、たとえ周囲が「敵の言語」と呼び続けたとしても、取り消すことのできない地位である。たしかに、敵の言語ではあるが、その言語は私にとって敵ではない。

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後記

クルコフさんはいろんな所で書き続けておられ、日々の残酷な現実から、今もロシア語に対する感情が大きく揺れ動いていることがいろいろな書き物からも見て取れます。前半では、ロシア語しか知らなかったのに、ロシア語を完全に止めてしまったラフィエンコさんの話が出ていましたが、今が途方もない変化の時であることは確かです。

クルコフさんの本には、マイダン革命の中での貴重な記録である「Дневник Майдана」がありますが、今ももし毎日書いておられるのであれば、そしてこの凄惨な戦争が終われば、このおそろしい日々の記録を出してほしい、と思います。

と、思っていたら、今年の9月29日に「War Journal: The Russian Invasion of Ukraine」という新刊が出版されるそうで、楽しみです。

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