敗北状況の中のエリート:ロシア指導部の分裂はどこで起きているのか

ウクライナの民間インフラストラクチャに対する、ロシアの容赦のない攻撃の中で、今後の見通しは混沌としていますが、R.Politikのスタノワヤさんがロシア指導部内の亀裂について、カーネギーにまた面白い記事を書いておられたので、以下に簡単に紹介します。要するに戦争に賛成してきたエリートが、一旦休んで態勢を立て直そうというリアリストと、このまま突き進もうという主戦派に分かれているということなのですが、いずれにしても平和には程遠いという点で救いようのない話ではありますが。

スタノワヤ氏

2、3カ月前、ハルキウ近辺での性急な撤退の後、ロシアのエリートの間の分裂の可能性が話題となった。その後、ロシアはヘルソンからも退却し、予想された分裂はますます鮮明になってきた。エリートは、戦闘を一時停止して戦争目的を再考することを求める日和見的な現実主義者と、代償がいかなるものであれ容赦のないエスカレーションを支持する者に分かれた。この構図の中で、ウラジーミル・プーチンは後者に近いが、両方の信用を失いつつある。

迫る必然

ロシアのエリートが、プーチン大統領の戦略的決断によって、分裂の淵までまで追い込まれたことは、かつてなかったことである。オリガルヒの粉砕にも、縦割りの垂直的権力構造の強化にも、ほとんどエリートたちの抵抗はなく、シロビキの台頭さえ、むしろ安定のための代償と見なされてきた。グルジアでの戦争にも何の疑問も抱かれず、2014年のクリミア併合には多くの者が喜んだ。

それから、これは通常の当たり前のことになり、プーチンの取り巻きは取り立てられ、より図々しくなり、シロビキが公的部門だけではなく民間部門(大企業のトップなど)にも浸透し、国家イデオロギー(伝統的価値、精神主義、反米主義、反自由主義)が浮上した。2015年以降、この国の生活は急速にソビエト化し、プーチンの任期はリセットされ、体制外野党は完全に打倒されるに至った。

これらのいずれも分裂の要因にはならなかった。エリートたちは不平を言いつつも、何事もなかったかのように生活を続けた。ウクライナへの侵攻も、ショックではあったが、分裂には至らなかった。強硬に反対した者は去り、去ることのできなかった者は長らく沈黙を守った。

エリートが政治的に無力である理由の説明として、専門家はプーチンに対する恐れや、自分たちの立場を表明したり、大統領に働きかける機会がないことを挙げることが多い。しかし、これは、エリートが何が起こっているのか問わないことの理由というよりは、その結果であるように見える。

本当の理由は、プーチンの圧倒的な地位が認識されたことと、政治的主流に保守派が集中したことの方が大きいだろう。特にこの流れがますます強力になり、無節操になり、主流、すなわち反欧米の保守主義からの逸脱に不寛容になる中では、誰も流れに逆らおうとはしないだろう。

プーチンに対する恐れとは、反プーチン(体制外のもの)はすべて敗北する、という現実の理解に他ならない。失うものがある者は、現実的に隠れて黙っていることを選ぶだろう。

それに、長い間、ロシアのエリートは、ロシアがウクライナとの戦争に負けるはずがない、プーチンが何か新しい計画を立てて、すべてを解決してくれる、と信じていたのである。いずれにしても、事態がこれ以上大幅に悪化することはないと思われていた。何しろ、西側はすでに圧力をかける手段のほとんどすべてを使い果たしていたのである。

四州併合の式典にて

エリートたちは、気は進まないものの、ロシアのウクライナに対する戦争を所与として受け入れざるを得なかったのである。もう事態は行き過ぎており、それに代わる選択肢は存在しない。そして、もし敗北するようなことがあれば、社会・政治的な動揺や大衆の蜂起が起こる恐れがある。エリートは革命を望んでいない。

したがって、9月のハルキウ近郊での退却までは、治安当局から大企業に至るまで、大多数のエリートの計算は、ロシアは何らかの形で勝つはずである、という単純なものであった。それが実際に何を具体的に意味するかには関係なく、重要なポイントは同じであった。すなわち、クレムリンは戦争によって何かを「得て」、政権の崩壊は回避されるだろう、ということである。

しかし、9月以降、状況は急速に変化した。プーチンの23年間にわたる支配の中で、初めてエリートが徐々に分裂していると言われる十分な理由がある。浮上したこの2つのグループの代表格は、いずれも親プーチンで体制派であることに変わりはないが、ロシアの今後のあるべき行動と、優先順位について異なる見解を持っている。そして、この分裂は体制内部で起こっているため、反体制と戦うことを目的としている抑圧組織にはどうすることもできない。

この紛争の萌芽において、プーチン自体は不在である。プーチンの見解が誰にも明確でないためか、誰もプーチンを振り向いていない。戦争を「特別作戦」として継続し、その目的を明確にすることもなく、ロシアの限られた資源で、ウクライナの問題をどう解決するのかという無数の疑問を無視する中で、プーチンの指導者としての機能は希薄化している。

9月までは、エリートたちはプーチンが自分のしていることを把握している、という感触を持っていた。しかし、住民投票が理由もなく行われた中で、ハルキウとヘルソンを明け渡した後は(ロシアはあからさまに、奪取した領土を守ることを拒否し、あっさりと自国の憲法を貶めたのである)、すべてが混乱、さらには国の崩壊に向かって加速する動きであるかのように受け止められているのである。奈落の底に落ちるという見通しに比べれば、戦争は恐ろしいものではなかった。この点で、プーチンは両極のエリートにとって弱い存在に見えており、また、この両極の浮上そのものが指導者の弱さへの反応である。

ロシアが戦争に負けるのであれば、どうすべきか、という一つの問いを軸に、分裂が現れている。何もなされなければ、それが起こるという点で、エリートのほぼ全員が一致している。クリミアでさえ明け渡さなければならないだろうし、国際法廷、長年の賠償、親欧米政権の樹立を伴う完全な降伏もそう遠くはないだろう。そして、これこそが、ロシアで平和派が出現しない理由である。現在の弱い立場では、それはすぐに敗北派になってしまうし、まだ誰も敗北派になる心づもりがないのである。

現実派の極

しかし、敗北でなければ、どうするのか。この点で、エリート(つまり、戦争賛成派)の中での分裂が顕著に浮上するのである。第一の極は現実主義者である。彼らは、ロシアは今戦争に勝てないのであるから、軍や経済の再建、政治体制の刷新に取り組むために一旦休止する必要があると考えている。現実主義者にとっては、開戦は国の能力に対する歪んだ理解から生じた過ちであった。住民投票も、勝ち取ったものを維持することは不可能であったのだから、実施されてはならなかった。現実主義者は拠点をあきらめることには反対である。防御態勢に入ることで前線は維持しなければならない。

現実主義者の中には、官僚やビジネスマンだけではなく、前線の事態を理解している治安関係者や超愛国主義者もいる。これらの多くは、個々として政治力を持っているわけではなく、組織の影響力(高官)や資金力(大企業の代表者)を有している。セチンやチェメゾフのような国家オリガルヒも、代償を問わず勝利を求めるよりも、プラグマティストである可能性が高い。彼らは失うものが大きいのである。

プーチンとセチン

現実主義者はメディアにも存在する。軍隊に対する深刻な批判は容認され、「展開しつつあるNATOとの戦争」におけるロシアの脆弱性は認められている。例えば、コンスタンチン・ザチューリン議員は最近、ソロヴィヨフのトークショーで、併合地域を防衛するための核兵器の使用に反対するだけではなく、併合地域の地位についても大きな議論を呼ぶ見解を表明している。

情報の分野におけるこのような揺らぎは、メディアのキュレーター自身が、何が起きているのか、そして失敗をどうカバーすればいいのかを理解していない、ということの直接的な帰結である。彼らがプーチンの部下を批判してプーチンを擁護するという重要な事項に集中しているのはこのためである。

エスカレーションの極

現実主義者の対極にあるのが、エスカレーションを望む極である。彼らは、ロシアが敗北を免れるには、全面的な動員、資源の集中、ウクライナへの容赦ない爆撃を最後の最後まで実行することを決断するしかないと主張している。これらのエリートは現実派よりもはるかに雑多な集団だが、一つの点で共通している。すなわち、前線の状況が悪ければ悪いほど、これらのエリートは政治的な配当を得ることができるという点である。

エフゲニー・プリゴジンとラムザン・カディロフは、エスカレーション派の鮮明な代表である。前者は周縁部の存在から、戦争賛成派の主流の代表者の一人になった。後者は、軍事的な功績を、クレムリンがこれまで彼には認めてこなかった、連邦レベルでの特別な地位につなげようと積極的に動いている。エスカレーション派には、挑発的な大言壮語の日和見陣営、すなわち統一ロシアの積極的な一部と、体制内野党、特にロシア共産党のタカ派的な一部も含まれる。これらのエリートは全て、縦割りの垂直権力構造に組み込まれており、ロシア軍の敗北を背景にすると、明るく見えるかもしれない局所的な勝利で点数を稼いでいる。

プーチンとプリゴジン

コヴァルチュク兄弟も、条件付きではあるがエスカレーションを支持している。セチンやチェメゾフのように失うものもあるが、プリゴジンと共通するのは、国の資産を奪ってそれを私的に運用するのではなく、逆に私的な資産(それがメディアであれ、ワグネルであれ)を国の監督下に置いており、したがって国の論理に適合せざるを得ないという点である。そして、国家が彼らのサービスを必要とすればするほど、彼らの政治的な重みは大きくなるのである。

コヴァルチュクを含め、エスカレーションの支持者の多くは特に影響力があるとは言えないにもかかわらず、現在、ウクライナにおけるロシアの戦術を定義しているのはこの極である。なぜなら、この極はイデオロギー的にプーチンに近いからである。大統領はまた、エネルギーインフラストラクチャに対する爆撃によってウクライナ軍の戦闘力が低下し、ウクライナ当局の人気が低下すると考えており、その後にロシアはウクライナに対して降伏の条件を押し付けることができると確信している。

この計画がうまくいかなければ(その成功は大いに疑わしいが)、エスカレーション派は一段と強く、さらに過激になっていくだろう。そして、ウクライナ人に対してだけでなく、ロシア政府内の敗北主義者や無能な役人に対しても、より過激になるだろう(プリゴージンの強烈な反エリートのレトリックが一例である)。ただし、特に世論がデ・エスカレーションに徐々に傾斜する中で、同時に現実派の政治的な重みも増すだろう。

ロシアは、エスカレーションを生きる道とする急進派と、これ以上のエスカレーションは完全な崩壊を招く可能性があると認識する現実派の間の最終的な戦いに近づいている。この闘争の帰趨はまだ予断を許さないが、その結末はロシア・ウクライナ戦争の行く末だけではなく、ロシアの将来をも左右することになるだろう。

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