セルゲイ・メドヴェーデフ氏は諸方で著述、発言されているのでご存じの方も多いと思いますが、ロシアの歴史・政治学者で、ロシア国立研究大学高等経済学院の教授をされていました。プーチン体制には批判的だったので、大丈夫かと案じていたのですが、開戦後しばらくして陸路でバルト諸国に逃れられたようです。
同氏の著書に、2017年の「Парк Крымского периода(クリミア期パークとでもなるんでしょうか、プーチンの時代錯誤ぶりを皮肉って「ジュラシック・パーク」にかけたタイトルのようです)」があります。この本は、本ブログでも昔軽く取り上げましたが、「The Return of the Russian Leviathan(ロシアのリヴァイアサンの帰還)」というタイトルで英語版が出版され、2020年のプーシキンハウス賞を受賞しています。短いコラムを集めた感じの構成になっており、非常に読みやすい本ですが、この本で書かれていたことの(非常に遠い)延長線上に今の事態がある、と抵抗なく思える内容です。
この本は、その後10カ国以上で翻訳され、今度トルコ語版とルーマニア語版が出るようですが、ルーマニア語版のために、同氏が新たに書かれた序文を見かけたので、以下に紹介します。現在の事態を少なからず予感させるような本を書きつつ、ここまでになることは全くの予想外であった同氏の狼狽が感じられます。
—-
2022年2月24日未明、ロシアによるウクライナ侵攻の一報に、私は「この本を書かなければよかった」と思った。「The Return of the Russian Leviathan」は2020年初頭に英語版が出版されたが、この本のメインテーマは戦争であった。より正確には、ウラジーミル・プーチンの体制が10年にわたって仕掛けたいくつかの戦争、すなわち主権をめぐる戦争、歴史の記憶をめぐる戦争、2014年のクリミア併合など旧ソ連邦の空間をめぐる戦争、そして人体をめぐる戦争が主題であった。ロシアは、第二次世界大戦時の神話を夢見て、外界との対決に備えて、軍国主義社会を作り上げていた。しかし、実際の戦争はほど遠く、あり得ないように見えた。
しかし、2月24日の不吉な朝、この本に描かれたすべての戦争が、私の世代が映画の中でしか見たことのない現実の戦争 - 眠っている都市への爆撃、草原の芽生えの中の戦車隊、荷物と泣き叫ぶ子どもたちを抱えた難民で溢れかえる駅、黒焦げの死体、血、苦痛、拷問、大量処刑など - を伴う現実の戦争に統合された。それはまるで、私たちが乗り越え、葬り去ったと思われていた20世紀の血塗られた歴史のすべてが、この恐ろしい日々の中で地中から蘇り、私たちに降りかかってきたかのようであった。戦争は、修辞上の図式や分析的なパラダイムではなく、日常の現実となり、2022年の夏の今、新しい勢力や国を引き込みながら、ますます深く、強く回転する黒い渦となっている。フィンランドとスウェーデンはすでにNATOに加盟し、バルト諸国やモルドヴァに対するロシアの脅威がすでに話題に上っている。80年前のように赤軍がルーマニア国境に達しないと誰が保証できるであろうか。
本書では、2011年から2012の冬に起こった反対運動と、2012年におけるプーチンの3期目の大統領への再選の後の10年間において、ロシアが権威主義の中進国から、復讐に執着し、第二次大戦後の欧州で最も大規模な戦争を引き起こすことになる全体主義社会へと変化した経緯を理解しようと試みた。人々は幻想を持つべきではない。ウクライナでの戦争は、プーチン個人の戦争ではなく、ロシア全体の戦争である。ロシア全体が、この体制から生み出され、そしてひいては、この体制およびこの復讐に対する要求を形作ったのである。プーチンが現代のロシアを作ったのか、ロシアがプーチン現象を作ったのか、という問いには意味はない。プーチンもロシア社会も「ロシア帝国の崩壊」という歴史の力の一部である。その崩壊は100年以上続いており、その終わりはまだほど遠いのである。
ロシアは、(歴史家ティモシー・スナイダーが2022年5月のニューヨークタイムズのコラムで明示的に述べたように)本質的にファシズム国家に変貌しており、本書ではロシアのファシズムの発生と形態が対象になっている。ここでいう「ファシズム」は、出版宣伝用の比喩ではない。2020年代初頭までにロシアに出現した社会の、歴史的、社会学的に正確な表現である。権威主義的な独裁体制(2020年の憲法改正により、プーチンは2036年まで支配できることが保証されている)と、打ち砕かれた反対派、国家とシロヴィキの完全な管理下に置かれた企業経済、強力な弾圧装置、暴力崇拝と自由主義の嫌悪など、現代のロシアは、イタリアやギリシャからハンガリー、ルーマニアに至る20世紀のモデルで知られるファシズムの教科書的事例のように見える。第三帝国の帝国主義的な強制的同一化政策のように、芸術、科学、教育は、最低の共通項へと単純化され、家父長制、伝統主義、愛国主義の思想、すなわち、いわゆる「(精神的)紐帯(скрепы:スクレ―ぺ)」が文化を支配しているのである。ところで、「紐帯(スクレーペ)」は、イタリア・ファシズムのシンボルとして選ばれたローマ時代のファスケス、つまりリクトール束(リクトール斧を紐で巻いた棒の束)と同じものである。実際、「ファシズム」は「скрепность(スクレープノスチ:団結)」や「соборность(ソボルノスチ:共同精神)」という、現代のロシアのプロパガンディストの大のお気に入りの言葉に変換されている。
ここでロシアに欠けていたのは、ヒトラーのドイツにおけるユダヤ人のような「他者」のイメージであった。はるか遠方の米国人や、リベラル派、同性愛者をこの代役として使うことが試みられていたが、2022年になって、ロシアの大衆意識における「異物」の地位は、ウクライナ人に取って代わられた。ウクライナ人は、裏切り者、「ナチス」、ロシアの存在そのものに対する脅威であると宣言されたのである。そしてその時、ロシアのファシズムは、ウクライナ人に対するロシア人の人種的優越の思想、ウクライナの民族、歴史、文化、言語の存在そのものの否定に基づく、本格的なナチズムに変貌し始めたのである。20世紀の歴史が、恐ろしいほど文字通りに反復されることになった。ロシアは、現代世界を破壊する恐れのあるナチス国家になった。違うのは、今回のヒトラーは核爆弾を保有しているという点だけである。
2年前、この本の英語版の初版が出たときに、これらすべてを予見することは可能だったであろうか。おそらく可能だった。ここで、私自身が、ちょうど、ロシアがウクライナに対して戦争を始めることができると、最後の瞬間まで、まさにその朝まで信じていなかったのと同様に、ロシアの先祖返りの全容と現代世界に対する脅威の大きさを理解していなかったことを告白しなければならない。そして今日、私は、本書で述べたロシアの政治と社会のすべてのパラダイムが、血なまぐさい戦争のシナリオに変貌したことを苦い思いで噛みしめている。「空間をめぐる戦争」は、ロシアがウクライナ全土の占領、キエフへの到達、ドニエプル川に沿った国の二分割、それによるウクライナ左岸全域の奪取を目指す戦争となった。そして、ウクライナ人の比類のない勇気と頑健さのおかげでその計画が失敗すると、クレムリンはドネツク、ルハンシク、へルソン地域を併合するための戦いに集中した。
「シンボルをめぐる戦争」は、ロシアの新たな鉤十字である、ラテン文字のZで現実となり、Vの文字とともに、ロシアの侵略軍の戦車や装甲車のマークとなった。鋭角のとげとげしい外国の文字は突然人気者となり、Tシャツや車の窓、家の窓に描かれ、学校の子どもたちや収容所の囚人たちはZの字の形に並び始めた。Zは過去との根本的な決別、ロシアの孤立と全面戦争の深淵への突入のシグナルであった。Zがラテン文字のアルファベットの最後の文字で、その後には空虚、無、死が続くのは偶然ではない。
しかし、それ以上に恐ろしいのは、「人体をめぐる戦争」であり、この戦いは国としてのウクライナを破壊するための物理的、生物学的な政策につながった。ロシア兵はウクライナの言語と歴史の教科書を路上で燃やし、学校の教師を探し出して殺し、いわゆる「選別収容所」で男性全員を裸にして、ウクライナの国のシンボルの入れ墨がないか体を調べ(見つかったらそれも銃殺とした)、ナチスドイツが「Ostarbeiter(東方労働者)」を追放したように、ロシアの遠隔地にウクライナ人を強制移送した。
最後に、最も重要な変容は「記憶をめぐる戦争」であり、この戦争は、メディアと文化、社会科学、歴史政治、ロシア大統領による似非歴史テクスト、「記念碑戦争」などにおいて仕掛けられ、2022年に現実の熱い戦争になった。神殿と行列で「勝利」の疑似宗教カルトを作り上げたロシアは、自らを新たな救世主であると思い込み、自分自身がナチスのモデル国家となったことに気づかないまま、架空の「ナチス」からウクライナを解放する戦争に乗り出したのである。
ロシアのリヴァイアサンは復活し、全身を取り戻し、新たな血を求めている。彼は、ウクライナでの戦争を決戦ではなく、世界秩序の力ずくの再構築の序曲であると捉えているようである。全人類、そして、とりわけ欧州は、彼が全世界を生け贄として要求する前に、ウクライナの国境で彼を阻止しなければならない。
—-
以上が新たな序文ですが、ホドルコフスキーさんやカスパロフさんのように、以前からロシアを逃れ、プーチンが非常に危険だと言っていた人たちとは違い、メドヴェーデフさんはプーチンの危険さは主にウクライナと国内政治の中の話であり、プーチンの実態はかつての皇帝に似せた情けないフェイクでしかない、と考えられていたのではないかと思います。
最初の英語版の序文では、同氏は「歴史は二度繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」という言葉を引き合いに出して、プーチンの復古的な試みの本質的な滑稽さを示唆して「本書はこの、悲劇が喜劇と出合う点で書かれた」とされていますが、悲劇が喜劇を最終的に飲み込んで、大悲劇となる可能性は、ロシアに限らず、全般的に復古的な体制を冷笑的に過小評価して捉える傾向のあるインテリに対する警鐘になるのではないでしょうか。
また、同氏は、ソ連崩壊時にモスクワ市内に突入したソ連軍の戦車に対して、当時抗議に繰り出した若者の世代であり、ロシアにしては珍しく30年ほど続いた自由な時代の学者の典型と言えるかもしれませんが、結局、バルト諸国に逃れる運命となり、ロシアのディアスポラの悲劇も再演になってしまっているようです。
ところで、この本は英語版はアマゾンで買えますが、英語版は初期の版がベースになっているようで、記述に少し誤りなどが残っており(今は改訂されているかもしれませんが)、ロシア語で読める方は、ロシア語の改訂された版の方がよいかもしれません。ロシア語の本の例にもれず、そこらへんに落ちているかもしれません
ピンバック: 引き続き待機 – Economics, Technology & Media