ウクライナの歴史を決定付けた出来事の1つである「ユーロマイダン」の抗議活動から10年になりました。私は以前は、ウクライナ関連の情報は、主にロシア、米国、欧州のものを混ぜて読むという感じで、これらを混ぜると結果としてまったく分かっていない人の誕生、という典型例であったように思います。単に最初に良いウクライナ本を数冊読めばよかっただけのことなんですが、西側の「偏向」情報に、ロシア側の意図的な虚偽を加えても、何ともなるわけもありません。無知は罪ですね。
マイダンに関しては、多くの本や情報がありますが、露発の「ウクライナ騒乱」の作り話は論外としても、当時関与していたウの政治家などの発言なども自分のポジショントークじみたものもありますし、欧米のものはやたら格調高かったり露の陰謀論に染まっていたり、結局クリコフなどの一市民の観察記の方が興味深かったりするのですが、Republicに掲載された、抗議活動の主要人物の1人だったイホール(イゴール)・ルチェンコ氏に対するファリダ・クルバンガリエワさんのインタビューが結構面白かったので、要約を紹介します(要約でも長いですが)。
なぜ露でマイダンがなかったのか、などの質問に対する回答なども当事者らしいもののように感じられましたが、ルチェンコ氏は10代のころモスクワでソ連邦崩壊、ロシア誕生のころの群衆の熱狂を経験しているそうで、もしかしたらそれが彼の後の行動に影響を及ぼしたのでは、などと考えてしまいました。
2013年11月30日の夜、キーウのマイダンで、政府にEUとの連合協定の締結を求めて集まった人々に対して特殊部隊が暴力的な攻撃を開始し、12月1日にはオレンジ革命以来で最大のデモが起こり、数カ月に及ぶ抗議活動の末に、最終的にはヤヌコビッチ大統領が逃亡するという事態に至りました。ルチェンコ氏は抗議活動の主要人物の1人であり、2014年の1月には治安部隊が雇ったゴロツキたちに誘拐、暴行されあやうく一命をとりとめたという人物で、その後は国会議員、キーウ市長顧問を務め、現在は第72独立機械化旅団でロシアとの戦闘に加わっている、と言うことです(キーウ攻防戦での働きにより、ゼレンスキーから勇敢勲章を受けている、とのこと)。
当時までに、ヤヌコビッチに真剣に失望していたのか?
ヤヌコビッチに魅力を感じたことはなかった。私は町の活動家で、古いモニュメントの保護や、保全地域の開発反対などの活動をしていたが、当時の状況では声を上げるのは不可能だった。
キーウのレベルでの自治は失われ、硬直的で強力な縦割り権力構造が作られて、ユシュチェンコの時代のように役人の矛盾を突くことさえ不可能だった。問題の根源が中央政府にあることは明確だった。
抗議活動は、ヤヌコビッチが自主性のない繰り人形でしかないことを示す機会だと思っていた。そして彼がEU連合協定への署名を拒否したことでそれは示された。ただ私自身はどちらかというと右派の人間で、EUを警戒の目で見ていた。連合協定にはプラスもマイナスもあるし、欧州がウクライナの方を向くのがどれだけ難しいかも分かっている。欧州の誰もウクライナを求めてはいない。しかし、当然だが、私たちが「タイガ連合」と呼んでいた、ロシアとベラルーシとの関税協定よりましだった。
初期のマイダンはどんな感じだったか?
言わば、リベラルな若者、ヒップスター、都会の活動家の集まりみたいなものだった。ヤヌコビッチの下では目がないと分かっていた若手の政治家も入っていた。みんな変化を望んではいたが、生死を賭けた争いになるなどとは誰も想像もしていなかった。オレンジ革命のトラウマから当局はテントを禁止していて、みんなそれを守っていた。
どういう計画だったのか?
ウクライナの欧州への道を維持するようにヤヌコビッチに圧力をかけるつもりだった。ウクライナ全体の人たちを動員して、行列して足を踏み鳴らして「ヤヌコビッチ、署名しろ!」とやりたかった。実際、それが当時のスローガンだった。彼が署名を拒否したことで、活動は難しくなった。
11月30日の夜、人々がもう静かに退去する心つもりができていたところに、ベルクート(治安部隊)が一方的に暴力的な排除を始めた。「解散しなければ、実力に訴える」という警告もなく、すぐに無差別に殴打を始めた。知人の60歳の女性も両腕の骨を折られた。無差別に暴力を振るう命令があったのは明確だ。
ヤヌコビッチがそのような命令を下す理由を説明できるか?
ヤヌコビッチは作戦を把握していなかったと思う。学生たちを血まみれにするのが彼の計画だったとは思えない。ウクライナの治安当局には数多くのロシアのエージェントがおり、モスクワは抗争を激化させることで、ヤヌコビッチを動けないように流血で縛り付けようとしたのだと思う。クチマの時に少し似た構図だ。
30日の前夜にも、武装した大量の警官がマイダンに動員され、私たちを包囲したが、私たちは平和的に対処して争わなかった。大体、マイダンには力で当局に抵抗できる者など一人もいなかった。つまり、実力行使の強行など、何の必要もないことだった。ヤヌコビッチが関与していなかったもう一つの重要な証拠は、ヤヌコビッチが国家安全保障・国防評議会の副委員長だったシヴコヴィッチなど、作戦の主要な下手人たちの排除と迫害を始めたことだ。シヴコヴィッチはロシアの工作員だったことが分かっている。
ヤヌコビッチの知的能力と、幼稚な管理スタイルを考えると、自分で状況を把握することなく、内輪の人間に任せて、自分はいつものように休んでいたのだろう。しかし、任された人間たちは彼のためではなく、彼らの本当の主人のために働いていた、というわけだ。
30日の残虐な制圧の後でマイダンはどう変質したのか?
騒ぎの直後に、ヤヌコビッチの辞任を求める平和的な集会に100万人規模の人々が集まった。「罪人よ、去れ!」というスローガンを覚えている。野党は存在意義を失わないためには、抗議活動の主導権を握るしかなくなった。しかし野党政治家のほとんどは、ヤヌコビッチに選挙で勝つかもしれない「クールな」政治家の役割に満足しており、外に出て普通の人たちに交じってマイダンに行って体制と戦うことなど真っ平だった。ユリア・ティモシェンコは違っていたが、彼女がライバルになると見て取ったヤヌコビッチは彼女を投獄した。
しかし、リソースを集め、テント村を設置し、キッチンを用意し、演説ステージを組み立てるとなると、それには政治的な責任が伴う。彼らは外に出ざるを得なかった。とうとう、本当の革命が起こりつつあるように感じられた。私にすれば、出国か、死か、勝利か、もう引き返す道はなかった。過去に野党と当局が抗議活動をつぶしたように、この抗議活動に水を差すことはできないと分かり、私たちは全てを賭ける構えだった。
テント村が作られ、バリケードで守られた。もう要塞だった。マイダンの自警団が現れ、ベルクートの攻撃に備えた。彼らは盾や棒を用意し、まるで民兵だった。彼らは、酔っ払いや泥棒、そして内部に潜入した警官を追い出した。
マイダンの境界近くの建物では、講義やセミナー、報告会などの様々なイベントが開催された。朝、マイダン内に数百人の人がいるとすれば、夜には数万の人々が集まった。マイダンは脈動する抗議活動だった。
ロシアのプロパガンダでは、例えば「国務省クッキー」を抗議者に配るヴィクトリア・ヌーランドの話などを出して、「西側の手」がマイダンを組織したと宣伝されているが?
あのようなカオスを誰かが組織できたなどというのはとんでもない妄想だ。人々が立ち上がったのは、主に、以前の、これも自然発生的な運動だったマイダンを覚えていたからだ。学生たちが残忍に殴打された後、ヤヌコビッチの辞任を求める人々が全国からキーウに集まった。ウクライナの典型的なマフノ的でブラウン運動的な活動だった(Rusbureau注:マフノはロシア帝国が革命で混乱する中、ウクライナ農民を率いて蜂起して解放区を作ったが、最終的に赤軍に滅ぼされた)。
当局の暴力の行使の後で、マイダンに集まった人の数は何倍にも膨れ上がったのだから、マイダンの首謀者は当局自身と言うべきだろう。私自身、親米分子などみたこともない。
ロシアのプロパガンダでよく言われていた嫌露(ルソフォビア)に遭遇したことはあるか?
ロシアが抗議活動を鎮圧するための兵器を当局に供給したというニュースが出たときは反ロシア感情が噴き出した。それにプーチンがヤヌコビッチを支援しているのはみんな知っていたから、プーチンは嫌われていた。
しかしマイダンが嫌露だとか言うのはナンセンスだ。マイダンのアジェンダにはロシアのロの字もなかったし誰も口にもしていなかった。あったのは、自分たちとヤヌコビッチだけだ。私たちは、自分たちが政治プロセスの主人だと思っていたし、ヤヌコビッチもある程度はそう感じていたと思う。ロシアもアメリカも取るに足りない事項だった。
マイダンにはロシア語のスローガンが多くあったし、ロシア語で普通に会話されていた。もちろん「スヴァボーダ」党の連中みたいにロシアを極端に嫌っているグループもあったが、連中はポーランドもアメリカも全てを嫌っていた。ロシア人がキーウに来れば、みんな彼らを歓迎し、マイダンの中を案内して見せて回っていた。来る人たちは反プーチンで潜在的な味方だと思っていた。当時は誰も将来私たちを殺すのがロシア人だとは思っていなかった。
東部ウクライナではキーウのマイダンを否定的に見る住民も多かった。
東部では体制派メディアとロシアのメディアが活発に活動していて、それを通じて事態を見ていたからだ。彼らはキーウでは虐殺が行われており、マイダンが勝てば自分たちもナショナリストに虐殺されかねないとまで考えていた。プロパガンダが恐怖心を植え付け、それが後にギルキン(ストレルコフ)のような連中が乗り込む背景となった。
実際にはマイダンの全般的な空気は中道右派というところで、ラジカルではなく極めて穏健だった。警官の殴打や攻撃に応戦したところからラジカルと見られたが、これらの人々をラジカルとは言わない。もちろん「極」の付く人々は存在したが、ヤヌコビッチが全員刑務所にぶちこんでいた。これらの人々は2014年にアゾフ大隊を組織して、実際にネオナチと非難されていたが、ヤヌコビッチの時代には彼らは監獄の中だった。
しかし、運動はすでに平和的なものではなくなっていたのでは?火炎瓶が投げられ、ベルクートのバスに火が放たれたりしていた。暴力の行使についてマイダン内部で合意はなかったのか?オープンソースの情報では、ヴィタリー・クリチコが暴力と警官隊との衝突を阻止しようとしたら、ブーイングと消火器の泡を浴びた、という話もある。
当初はみんな非暴力を望んでいた。また、マイダンの事態のコントロールを試みていた野党政治家も暴力の選択肢を封じていた。しかし、殴打されれば応戦が始まる。治安部隊も定期的にマイダンを襲撃し、近隣の道路を掃討していた。
クリチコの件があったのは神現祭のころで、警官隊との最初の深刻な衝突が始まったころだ。大きく2つの立場があって、一つのグループは出撃して行政府を襲撃する必要があると考えており、他方で主流派は平和の限度内にとどまり、少なくとも先に攻撃はしない、という姿勢だった。しかし、誰もこれが完璧に平和的なイベントだとは考えていなかった。誰もが自分自身の抗議の限度を自分で決めていたと思う。
その後、事態はどうエスカレートしたのか?
1月12日に人民集会が開かれ、20万人が参加した。19日には国会への平和的な行進が行われた。デモ隊は国会前まで行き、大統領の権限を制限した議会制共和国の樹立のための憲法改正を要求する予定だった。しかし、これは平和的には進まなかった。急進派の一部が警察の封鎖線を突破し、警察も手をこまねいていなかった。衝突が始まり、大群衆が集まって警官隊と戦い、事態は欧州のどこかの革命のような様相を呈し始めた。
衝突の3日目には3人のデモ参加者が殺され、私は治安当局に雇われたティトシキ(暴力集団)に誘拐された。ヤヌコビッチの側近はマイダンの最も積極的な活動家たちを脅迫するために誘拐計画を立てたのだろう。彼らは私の携帯電話を盗聴して待ち伏せしていた。私はデモ中に眼を負傷した参加者(ユーリ・ヴェルビツキー)を車で病院に連れて行ったが、これが結果的にユーリを死に追いやることになってしまった。
連中は医師がユーリの診察をしている最中に10人ほどで診察室に押し入り、私とユーリをミニバスに押し込みキーウ近郊の森の中の車庫に放り込んだ。私たちは別々の区画で長時間殴打された。ユーリは特に酷くやられた。彼は知的で非常に穏やかな人物だったが、プロパガンダ漬けになっているティトシキからすれば、典型的な「警官を殺すためにキーウにやってきたバンデラ主義者のリビウ民兵」だった。殴打を止めるように彼が懇願するのが聞こえた。
彼らは何か言ったか?
連中は私にマイダンを指揮している司令官は誰か、誰が私たちに金を払っているか、デモへの参加でいくら支払われるか、というようなことを聞き出そうとした。彼らのアタマでは、中央集権的で、すべてが金で決まり、司令官がいる組織しか考えられないようだった。彼らは、捕虜になった兵士に対するように「お前たちの司令官は誰だ」と聞いてきたが、それは素朴にさえ聞こえた。
その後、ユーリと私は森の中で別々に投げ捨てられた。後に多くの骨折が判明したユーリとは異なり、私は骨も内臓も大丈夫だった。頭が酷く殴打されて脳震盪を起こしており、意識を失いかけながら近くのダーチャ・コーポラティブにたどり着いた。幸運なことに人がいて、仲間が助けに来るまで寝かせてくれた。その後、ユーリははるかに酷くやられ、歩行できるような状態ではなく、森の中で低体温症で亡くなっていた、ということを聞かされた。
ヤヌコビッチ自らが、デモ参加者に発砲するように命令した、と考えられているが、彼がそうした理由はなにか?
実際に誰が命令したのかは分からない。ヤヌコビッチには客観的な状況が分かっていなかった、ということに注意する必要がある。ヤヌコビッチはインターネットを知らず、プーチンのように紙で報告を受けていたので、操るのは簡単だっただろう。側近の誰かがヤヌコビッチを武力による問題の解決に傾かせる必要があると考えたのだろう。
ここで、マイダン全体の破壊を目的とした2月18日の作戦について話す必要がある。これは「ブーメラン作戦」と呼ばれ、まさにその通りになった。これは火炎放射器などで武装した軍隊の支援を受けてデモ参加者を打倒するという重大な作戦だった。この直前には、地上軍の司令官が解任されている(原注:ゲンナジー・ボロビヨフ将軍は、マイダン制圧への武力行使を拒否して解任されたという可能性がある)。
これには、モスクワが積極的に関与していたと思う。発砲が始ればマイダンの参加者は蜘蛛の子を散らすように逃げ出すと確信していたのだろう。しかし逃げ出したのはベルクートだった。軍はやる気はなかった。バリケードを破壊するはずの戦闘工兵車BAT-2は姿を現さず森の中を走り回り、APC-2は到着したがすぐに火を放たれた。作戦はあったのかも知れないが、実行がひどかった。作戦の失敗を見て、「無差別に全員を撃て」という命令になったのかもしれない。
ここでロシアの狙撃手が虐殺に参加した、という説があるが、どう思うか
ウクライナには、どんな恥ずべき事でもこなせる連中が十分にいた。特に警察では市民に対する行動がすべて免責されるという感覚が長年にわたって醸成されていたので、人を撃つこともできた。ロシアはそのような命令は出していなかった可能性がある。
ヤヌコビッチがヘリで逃亡した日のことを覚えているか
よく覚えている。人生最大の政治的教訓だった。2月20日はキーウで最大規模の発砲があった日で、インスティトゥツカ通りだけでも40人が殺された。翌日には閣僚たちが、主要な活動家たちを集めて、ヤヌコビッチの出した条件で講和に合意し、「マイダンを解散し、全員が家に帰る」ように説得した。政治家たちが我々を説得していた間に、ヤヌコビッチは荷物をまとめて逃げ出した、というわけだ。彼はずっと臆病者の快楽主義者で、困難な時に逃げ出した。しかし彼はずっと以前にウクライナを裏切っていた。彼は徐々に裏切り者になっていったのだ。
あなたを含め、多くの活動家がマイダン後に政界に進出した。それはウクライナの政治にとってプラスだったか?
正しいことだったが、その数が少なすぎた。どんな革命でも90%の参加者は受動的なフォロワーだ。それに戦争が始まって、マイダンのインパクトが薄れてしまった。たとえば、ポロシェンコは単に戦争の功績だけで大統領選で勝利を収めた。そして、大統領が権力を握ると、「自分の」議会を選ぼうとする。だから、本物のマイダンの活動家たちは、旧式な政治家よりも明らかに優れていたにもかかわらず、ほとんど政権の内部に入ることはなかった。
ロシアでプーチンの反対派がマイダンを起こせなかったのはなぜか?永続的なテント村がなかったからか?2011年の大規模な抗議の後、多くの抗議者は、抗議者たち自身が機会を逸してしまったと結論し、全てを捨てて、暖かい国での新年休暇に出かけてしまった。
あなた方(ロシア)の場合、インテリとディープ・ピープルが別世界を歩んでいるように見える。そして、革命の原動力はディープ・ピープルだ(Rusbureau注:ディープ・ピープル≪глубинный народ≫とは、ロシアのスルコフなど体制派の政治家が編み出した造語で、見えない奥の院のディープ・ステートに操られる西側諸国と違い、ロシアでは権力は透明で、国を動かしているのは外からは見えにくい大衆のディープ・ピープルだ、という無理のある主張からきた言葉)。
固く決意をした人たちが、外に出てきて、決定的なことを始める、というのは普通はインテリのすることではない。クリエイティブな格好いい人々は、一瞬にして革新派、そして革命の闘士にはなれない。それには時間がかかる。マイダンは多くがあまり話さない普通の人たちだった。普通の田舎の人や近くの町の人が多くいて、彼らには体制に反対することはとても明確で身近なことだった。多くのディープ・ピープルにとって、これは高邁な愛国心などの話ではなく、自分たちの生存の問題だったと思う。体制に反撃する必要があった。ロシアのディープ・ピープルには差し迫った危険の感覚がないように見える。
それに、ロシアのメンタリティでは、平和的な抗議活動は抗議の方法とは見なされていないように見える。平和的な抗議活動は、無の状態から武力革命に移行する上での中間段階だ。そして平和的な抗議活動それ自体は「深刻なもの」ではない。ウクライナではすでに以前の活動により、街頭抗議活動の文化が根付いていた。
しかし、ロシアでも1991年には平和的な抗議活動があり、勝利を収めた。
それは、すでに忘れ去られたのだと思う。その頃、私は10代でモスクワにいた。熱狂する膨大な数の人々を覚えている。でも、その後、ロシアの人々は大きく変わってしまったように見える。1993年の議会の砲撃とチェチェン戦争が大きく影響している。集合的な意識の中で、武力による暴力が非暴力闘争の美学に取って代わってしまった。
マイダンは、ロシアによるクリミア併合、東部ウクライナ侵略、そして全面戦争と、ウクライナ史における一連の悲劇的な出来事の幕開けとなった。この認識に揺らぎはないか?
ない。2000-2010年期の中ごろから、ロシアは明確にソ連邦のコスプレ路線に進んでいた。彼らのお好みのテーマの「汚された名誉」やら「屈辱」とやらを晴らすために、あらゆる方法でのウクライナへの復讐が試みられた。そういう状況下で、マイダンはウクライナの独立のための闘争の重要なラウンドになった。ロシアはこれに備えができておらず、このラウンドは我々の勝利に終わった。
その後、プーチンはウクライナの弱点をつくため、純粋に武力的な方法による奪取を始めた。しかし、マイダンで我々は勝ち、我々が平和的な行動で目標を達成できる、一体のコミュニティであり、国であることを示した。もちろん、血なまぐさい状況下での可能な限り平和的な行動、という意味だが。
昨年のマイダン記念日は、人々は絶え間ない爆撃や停電でマイダンを思い出す時間もなく、キーウではマイダンはほとんど意識にも上らなかったが、今年はまたマイダンが暖かく語られている。
往時のロシアの「急進派」の人々は、ボロトナヤでナワリヌイがクレムリン突入を決断していれば、体制は倒れていた、と主張する向きもあり、それはそうかもしれませんが、後にどうなったかという話をおいても、「副司令官」とまで呼ばれたルチェンコ氏自身が「マフノ的、ブラウン運動的カオス」という運動が自律的な生命を保ったマイダンと、一握りの主要指導者の間の対立の中であえなく瓦解していったロシアの反政府活動にはやはり大きな差があったのでしょう。