ドンバスの謎(1)

ロシアがウクライナをレジームチェンジするか、それがダメなら当分足腰の立たない焦土にする(か、その両方)、というレベルの全面攻撃を始めてから100日以上経過して、おかげで本業の経済・市場関係も、趣味のロシア語関係も未曽有のめちゃくちゃになっていますが、ウクライナの人と話してると「100日とちゃうで」とよく言われます。

もちろん、起点は2014年のクリミア、ドンバスに遡る、という話なんですが、私はウクライナの知人もいますが、ここらへんのことに関してはロシア趣味から始まってるせいか知識もソ連、ロシア経由が強く、2014年当時は正直それほどピンときていなくて、相当ズレていたのではないか、という感があります。

趣味とはいえ、物事を知るのは重要ですし、今回のことでは本業でも(まったく違う世界として分けておきたかった私としては残念なことですが)ロシアやロシア語に関する知識が少なからず役立っていることも事実です(なんかあるごとに停戦や!とか騒いで浮き立つクライアントや同僚に、んなことあり得ませんで、と冷水をぶっかける、とか)。 というわけで、今次の戦争が始まったころに逆戻りして、いろいろ読んでいたのですが、米インディアナ大のロシア・ウクライナ史教授で「Freedom and Terror in the Donbas」というドンバス関連では必読の著書もある、Hiroaki Kuromiya教授の2015年のリビウでの講演が面白く、また7年前の講演ですが現在の戦争を見る上でも示唆に富んでいたので、何回かのシリーズで紹介しようかと思います(仕事が忙しくて1回でできない?)

以下、Kuromiya教授が2015年6月にリビウの文化フォラムDonkultで行った講演の抄録です(講演、英語

ドンバスの謎:その過去と未来をどう理解するか

現在(注:2015年当時)のドンバスにおける戦争は、一見しただけでは理解が困難である。欧米のほぼすべての報道では、ウクライナ軍(およびウクライナ独立支持者の中の義勇軍)と親ロシア派の分離主義者(ロシア政府が密かにではあるが、直接的に支援している)との間で戦われているとされている。この図式には真実の部分がある。ロシア政府は否定しているが、これはロシアのウクライナに対する戦争でもある。ロシア軍は分離主義者を支援するために、紛争に直接的に介入している。しかし、ドンバスの親ロシア派武装勢力が、報道されているほど強固なものであるかどうかは、まったく不明である。ロシアの直接的な支援がなければ、ドンバス分離派はウクライナ軍にすぐに敗れる可能性が高い。確かにドンバスという地域は、どの政府にも、どのイデオロギーにも、真に忠実であったことはない。このことは、紛争の終結の形態にかかわらず、キーウとモスクワの双方にとって難しい問題を提起することになる。

極めてウクライナ的な土地としてのドンバス

このウクライナとロシアの国境地帯の政治的な好戦性は、長い間、多くの政治家を恐れさせてきた。レフ・トロツキーはかつてドンバスについて、「(政治的)ガスマスクをつけずにドンバスに行くことはできない」と述べている。過去長年において、ドンバスの労働者たちの炭塵で真っ黒になった顔は、この地域の政治の困難さの象徴であった。1917年から1921年の革命に伴う混乱とそれに続く内戦の期間に、ドンバスの政権は幾度も交代した。共産主義者、反革命派、ウクライナの様々な民族主義者など、いずれの政党や政権もこの地で大きな支持を得ることはなかった。1918年、ウクライナ東部の共産主義者たちは、新たに独立したウクライナ政府に反発し、自分たちの土地と周辺の工業地帯を「ドネツ・クリボイ・ログ・ソビエト共和国」として分離したが、この動きは現在のウクライナ東部の分離主義に類似したものであった。当時も現在と同様に、この新たな共和国がドンバスの人々の幅広い支持を得たという証拠はほとんどない。この共和国は、現在のドネツク人民共和国やルハンスク人民共和国と同じく、上から「ソビエト」(「人民」)と宣言されたものであった。1918年当時、共産党指導者ウラジーミル・レーニンは、東ウクライナのボルシェビキの分離主義を問題視し、この共和国がウクライナから「プロレタリアの基盤」を奪って、ウクライナを弱体化させると考えた。このことから、レーニンはドンバス地方をウクライナの一部と認めた。レーニンのこの判断は当然であるといえる。ドンバス地方が文化的、言語的にどれほどロシア化されたとしても、それ以前もそれ以降も、ロシア民族がドンバスで多数派を占めたことはなかった。ドンバス地方は、ウクライナ人が大多数であったし、今もそうである。

しかし、レーニンの介入は平和にはつながらなかった。鉱業・冶金の巨大な産業中心地のドンバスは、共産主義の時代を通じてモスクワにとって問題児であり続けた。革命前と同様、ドンバスは引き続き難民や逃亡者を惹きつけていた。これは、ドンバスが過酷で危険な労働への従事を厭わない人々を常に必要としていたためである。政治的な迫害からであれ、経済的な困難からであれ、逃亡する理由のある誰もがドンバスに逃げ込み、文字通りにも、比喩的にも地下に避難した。ドンバスは避難所であり、自由の地であった。第二次世界大戦後、西側に逃げることができなかったウクライナのパルチザンは、ドンバスに行き、そこに潜むように勧められた。スターリン晩年の反コスモポリタン・キャンペーンの当時には、ドンバスを他の場所よりも自由だと考えたユダヤ人たちが引き寄せられた(当時、ドンバスに渡った一人に、イスラエルの政治家ナタン・シュランスキーの父親がいた。反ユダヤ主義のためにオデッサで働けなかった彼は、「スターリノ(現在のドネツク)で運試しをしてみろ」と助言されたのである。しかし、ドンバスは、シベリアと同様に流刑地でもあった。工業地帯特有の過酷な重労働の性質のため、ドンバスは好ましくない政治的人物や集団を放逐する格好のゴミ捨て場となった。そのため、ドンバスは矯正労働収容所のように、非合法な政治思想が広まる場所となった。

ドンバスはまた、民主化の場でもあった。第二次世界大戦中、ドイツの占領下において、ムッソリーニやフランコのファシズム思想に共鳴するウクライナ民族主義者が、西部から東部のドンバスまで遠征し、住民の心を掴もうとした。彼らは現地の人々に拒絶され、一部では民主主義的なウクライナを支持するに至った者さえいた。これが、例えば、イエベン・スタキフがドンバスでの経験について語っていることである。ニューヨーク近郊の海外移住ウクライナ人コミュニティで最近まで活動していたスタキフは、その体験をとても好ましく憶えている。その後、ポーランドで「連帯」運動が始まる以前であるが、ブレジネフ時代には、ドンバスは独立系(非ソ連)労働組合運動(特にウォロディミル・クレワノフ)の非常に重要な中心地となった。ドンバスはまた、ソビエトの重要な自由戦士を数多く輩出している。ウクライナの詩人ヴァシル・ストゥスもその一人である。シュトゥスは1985年にロシアの労働収容所で死んだ(2001年にドネツク国立大学に設置された彼の記念プレートは、最近、反ウクライナ勢力によって撤去された)。1991年、ドンバス地方の人々は、モスクワの存在がなければ自分たちの生活は良くなると考え、圧倒的多数(83%以上)がウクライナの独立を支持した。しかし、独立後のウクライナは、満足できるものではなく、彼らは失望した。ドンバス地方に広がる怒りはこのためである。

だからといって、ドンバス地方の人々が親ロシア的かというと、必ずしもそうではない。今は多くの人がウクライナよりロシアの方に望みがあると考えていても、明日には考えを変えるかもしれない。執拗な政治的レトリックにもかかわらず、ロシアとウクライナ間の民族問題や言語問題がドンバスの政治において大きな役割を果たすことはなかったし、それは今も同様である。多くの面において、ドンバスの人々は15世紀から16世紀にかけて、モスクワ大公国/ポーランド/オットーマンの国境地帯の「荒野」で自由と運を求めて形作られたウクライナ・コサックのように振る舞っている。政治的な状況の変化に応じて、彼らは自己の存在と幸福を守るために、それらのいずれの勢力とでも手を結んだ。17世紀半ばには、ポーランドに対抗するためにモスクワ大公国のツァーリと実利的に一時的な同盟を結んだが、ドンバスとその周辺地域がモスクワの手に落ちるという結果に終わった。この国境地帯では、政治的なプラグマティズム、あるいは見方を変えれば「無原則さ」が絶えることなく息づいている。イワン・マイストレンコの証言は示唆に富んでいる。マイストレンコは1920年代にドンバスで活動していたが、彼に言わせると「ウクライナ国家という感覚がない」ドンバスの労働者に絶望した。彼らは「全ロシア党がダメなら、ウクライナのやつを試してみよう」というような具合であった。10年後、ドンバスでの活動に戻るよう命じられたマイストレンコは、ドンバスを「文化的に不毛の地」として断固として拒否した。それから70年、80年を経て、ウクライナの独立後においても、多くの政治活動家がドンバスの労働者に対して同じような思いを抱いている。

いずれにせよ、コサックの荒々しい世界においては、民主主義や平等の理念は必ずしもなじみのないものではなかった。それらが「専制的なロシア」や「貴族政的なポーランド」と明確に区別される、ウクライナの近代的な独立国家の建国理念を提供するものであったことは確かである。反都会的で荒々しい平等主義のエートスと政治プロセスへの直接参加というこの特別な意味において、ドンバスは「親ロシア」志向と言われているにもかかわらず、極めてウクライナ的であるように見える。

これは、ウクライナの歴史における一種のパラドックスである。しかし、この逆説は真摯に受け止める必要がある。現在、ウクライナの著名な知識人の中には、ドンバス(とクリミア)がない方がウクライナのためになると指摘する人もいる。これはドンバス地域と現代ウクライナの歴史的な関連を見逃している近視眼的な見方である恐れがある。また、ドンバスの人々が全体として分離主義者であるかどうかも分からない以上(私はそうではない、と見ている)、こうした見方は無責任でもある。ドンバスをこのように(問題児として)切り捨てることは、ウクライナの国づくりという政治的問題の回避である。

それはなぜか。ドンバスが中央権力に敵対する自由の地であるというこのポイントは、ウクライナの歴史における「国家」および「国づくり」に関する決定的な疑問を提起している。近代ウクライナの国家イデオロギーは、コサック運動の反骨的かつポピュリストで民主的な性質の理想化に基づいたものであっただけに、圧倒的に「ポピュリズム」であった(この点は、コサック運動の影響がほとんど及んでいないガリチアにも当てはまる)。ウクライナで最も有名な歴史家・政治家であるミハイロ・フルシェフスキーがその好例である。彼や他の人々は、強力な中央集権国家の建設よりも、平民の自由で自律的な存在を強調した。彼らにとっては、「国家」よりも「人民」が重要であった。ウクライナで「国家建設」を重視する政治思想家が生まれなかったわけではない(たとえば、1918年4月にフルシェフスキーが率いる独立ウクライナ政府を打倒したスコロパドスキー政権に参画した、保守派のビアチェスラフ・リピンスキーがそうである)。しかし、特徴的なことであるが、今日のウクライナでは、リピンスキーよりもフルシェフスキーの方がはるかに高く評価されている。いずれにせよ、国づくりや国家建設という面での歴史的な弱さ(あるいは非強調)は、全能の国家が「社会」よりも先に存在するかのように見えるロシアと好対照をなすものである。ロシアのリベラリズムさえも、ウクライナでは失敗した。リベラル派の政治家ピョートル・シュトルーヴェは、ウクライナをロシアから切り離して想像することもできなかった。リベラル派の政治家で歴史家のパーヴェル・ミリュコフも同様だった。彼の場合は、1930年代、亡命先でスターリンをロシアの国益、すなわち「ロシア」の統一性(彼の考えでは、ウクライナもここに含まれる)の守護者として受け入れるに至ったのである。

今日のウクライナは若い国であり、その国家建設のプロセスは容易でも短いものでもない。しかし、民主主義、衝突、自由、国家建設の間に根本的な矛盾は存在しない、ということを理解する必要がある。むしろ、ウクライナの自由と民主主義の伝統は、それがいかに乱雑なものであったとしても、ロシアの専制の伝統と比較すれば、不利というよりむしろ有利であるはずである。この決定的な点で、ウクライナはロシアよりはるかに先に行っているように見える。

(次回:ヤヌコビッチ現象につづく)

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