「過去数10年において進行している、ロシア語からの言語的な移行は、開戦の後で新たな緊急性を帯びている」 - アンドレイ・クルコフ
ロシアの侵攻を受けて、ウクライナの言語環境は急速に変化しているようです。ウクライナの友人にも、今までロシア語でやり取りしてたのに、「ここでは他人が見るかもしれないから英語で書いて」とか言われたこともあって、驚いたことがあるのですが、いろいろ話せば話すほど、自分の認識できていなかったことや、自分の無自覚だったロシア・バイアス(というよりも、単なる無知)に気づかされたりもしています。今回は、ウクライナの代表的なロシア語作家の1人である、アンドレイ・クルコフさんが「New Stateman」に書いたものを抜粋したものです(相変わらず、クソ忙しいので2回シリーズ、たぶん)。
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ヴォロディミル・ラフェエンコは、ロシア軍の戦車によって人生を変えられた、ウクライナの多くのロシア語作家の一人である。
2014年までラフィエンコはウクライナ東部、ドンバス地方のドネツクに住んでいた。彼の作品は主にロシアで出版され、ロシアで3つの権威ある文学賞を受賞している。彼はウクライナ語はできなかったが、当時はウクライナ語ができなくても、ドネツクで生活することは容易だった。
しかし、2014年春にドンバスで戦争が起きると、彼は夫人とともにドネツクの2つのアパートと仕事を捨てて、西部に移住した。ウクライナ語作家で翻訳家でもある、アンドリー・ボンダルが、ブチャの近くの別荘を2人に提供してくれた。こうして、ラフィエンコはキーウの住人になった。彼はウクライナ語を学び、ウクライナ語で文章を書き始めた。新しい言語による最初の小説『モンデングリン』には相当な編集作業が必要で、ここでも、ボンダルが協力した。ラフィエンコは、2019年にこの小説を発表した後、今後はロシア語とウクライナ語の両方で、交互に書くと約束した。しかし、2022年5月31日、彼はロシア軍によるブチャ占領下で1カ月を生き延びた後、公にロシア語を放棄し、もうロシア語で文章を書くことはない、そして二度とロシア語で話すことさえないと語った。彼はテレビ局のインタビューで「もう、この言葉と関わることはごめんだ」と語った。
私が子どもだった1960年代、キーウで話されている言葉はほとんどがロシア語だった。学校の授業もほとんどがロシア語で行われていた。街でウクライナ語を話す人がいれば、僻地の人間か、奇妙な知識人か、はたまたウクライナ民族主義者か、と思われた。私は幼い頃からロシア語で本を読み、アンドレイ・プラトーノフ、ダニール・ハルムス、ボリス・ピリニャーク、マキシム・ゴーリキーなど、お気に入りの作家の半分はロシア文学の作家だった。ウクライナのロシア語作家、ニコライ・ゴーゴリは、今も昔も大好きな作家の一人である。当時は、ウクライナ語を第一言語とすることは、多くの人にとってハンディキャップと考えられていた。ウクライナ語が貧農の言語であるという認識を乗り越えることを阻むことが、ソ連の国家的な政策であった。
ロシア語からウクライナ語への言語的移行は、2月24日以降において新たな緊急性を帯びているが、この言語的移行が始ったのは1990年代初頭、ウクライナ独立後の最初の数年間であった。当時、著名な作家のイレーネ・ラズドブドコは、ドネツクからキエフに移り住み、ウクライナ語で仕事をするようになった。彼女はすでにウクライナ語ができたため、この移行はそれほど困難ではなかった。また、当時は、ロシアはまだ、ウクライナのロシア語やロシア語話者の「保護」を始めていなかった。ロシア語の本は、ウクライナ語の本より売れていた。雑誌も新聞も、ロシア語の書籍(そのほとんどが、ロシアで出版された書籍)の書評を掲載していた。実際、当時はどの書店でも、おそらく80パーセントの本がロシア語の書籍であったのではないだろうか。ウクライナ文学の将来が不透明だったことは確かである。
したがって、ラズドブドコの行動は象徴的なものだった。ウクライナ人である彼女は、復活し始めたばかりのウクライナ語文学を支援したかったのである。ニコライ・ゴーゴリの故郷である中部ポルタヴァ地方で育った探偵小説の人気作家アンドレイ・ココティウカも、彼女に続いてウクライナ語に切り替えた。ラズドブドコと同様、ウクライナ語の大衆文学の発展を支えることを意図した決断であった。
この流れは、マスコミの論評も、読者や一般大衆の反応もほとんどない、静かな流れではあったが、次第に勢いを増していった。作家を志す若者にとって、どの言語を選択するかはもはや問題ではなくなり、多くは最初からウクライナ語で書き始めるようになった。カナダや米国のディアスポラの団体も、この動きを支援し、ウクライナ語の本を出版する出版社に助成金をだした。しかし、経済的には、独立後の10年から15年の間、ウクライナ語書籍の出版は採算が合わない状況が続いた。
この時期においては、多くの知識人や評論家は、ロシア語で書き続けている作家は、ロシアの書籍市場を目指しているのであり、したがってウクライナ作家とは見なされない、と考えていた。当時、私もその「ウクライナ作家ではない」一人と見なされていた。1990年代後半、私の小説はウクライナよりもロシアで売れており、ロシアの出版社から「ウクライナではなくロシアを舞台にしてほしい」という要望を受けることもあった(私は無視したが)。
まもなく、ロシア語とウクライナ語の両方で本を書き、出版するバイリンガルの作家が多く登場した。ロシア語作家は多くの場合において、ウクライナ文化への忠誠の証として、ウクライナ語の本を出版した。この例には、オデッサ出身の詩人ボリス・ケルソンスキーや、オデッサとモスクワを行き来していたオルガ・イルニツカ(現在はモスクワでオデーサのことを書き、オデーサを夢見ている)の作品がある。
しかし、ウクライナのロシア語話者の読者は、地元のロシア語文学をあまり尊重しなかった。彼らは、モスクワやサンクトペテルブルクで出される「本物の」ロシア文学を好む傾向があった。ウクライナ人の作家がロシアで出版されれば、それは質の高さの証であり、ロシアが自認するところの「ロシア文学の番人」からのお墨付きであった。
しかし、ロシアでは一般に、国外のロシア語作家は、出版社からさえも、ある程度下に見られていた。このようなプロジェクトは、作家の才能を認めるというよりは、むしろ人道的な援助行為と見なされることが多かった。ロシア語作家がロシアで成功し、認められるためには、ロシアに移住しなければならないという、問答無用の考え方が作家たちにはあった。